| ■■歴史紀行■■ |
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今からおよそ150年前のニッポン。激動の幕末。日露和親と通商条約の締結の目的をもって再度来航していたロシア使節プチャーチン提督とその部下500名を乗せたロシア軍艦「ディアナ号」(2000トン)が伊豆の下田港に碇泊したことから、ロシアと戸田の友好と歴史がはじまります。
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| 【プチャーチン残影】 開国直前維新の道を行く |
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プチャーチン提督は幕府に上申して、ディアナ号を戸田港で修理することを許され、船は下田から戸田へ廻港しました。しかし、おりからの駿河湾の強い季節風のため戸田港への入港ままならず、富士市の宮島村三軒屋(現在の田子の浦三四軒屋)沖に流され沈没してしまいます。
本国へ帰る船を失った彼らは、代船の建造を幕府に願い、戸田村の牛ヶ洞(うしがほら)で、戸田の船大工や伊豆近在の多くの大工の協力を得て、一隻の西洋型帆船「ヘダ号」を建造しました。
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| 【亡き父を偲んで訪れたオリガ・プチャーチナ】 |
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明治16年10月18日プチャーチンはパリで永眠しています。その4年後、1887年、明治20年5月21日、ロシア皇后付名誉女官、伯爵オリガ・プチャーチナが戸田村を訪れ、松城兵作宅に宿泊しています。
彼女は、亡父が戸田村滞在中、懇親な待遇を受けた謝意を述べ、関係者にそれぞれ記念品を贈り、翌日には父の想い出の場所を訪ね歩きました。
オリガは村を去るにあたり、窮民救助金として金一封と、彼女の使用した日用品を記念に置いていかれ、3年後、彼女が永眠した際の遺言には、戸田村へ100ルーブルを贈ってほしいという言葉が添えられていたのでした。 |
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当時のロシア兵の姿を描いた沼津藩士山崎継信は「魯夷船漂流話(るいせんひょうりゅうばなし)」の中で、彼らは背が高く鼻も高く、言葉は通じないが、音声は西国(関西)のもののようであると記している。
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【日本初の「洋式帆船建造の地」】 |
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ここに、新しい時代の幕開けがあった。
異国の人と人とを結ぶ友情の灯があった。 |
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| ◆ヘダ号 |
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本国へ戻る船をなくしたプチャーチン提督らロシア使節一行は、戸田の船大工や伊豆近在の大工たち多数の協力を得て、一隻の西洋型帆船を建造します。
ことばの不自由さ、習慣や技術のギャップ、多くの困難を乗り越えて建造された約100トンのスクーナ船に、プチャーチン提督は、村人への感謝の意を込めて「ヘダ号」と命名したと伝えられています。
日本で初めて建造された洋式帆船−ヘダ号。この船は、もともとプチャーチン提督以下、500名のロシア人が帰国するための船を、本国にとりに戻るためのもので、2本マスト、全長22m、幅7m、50人乗りの小さな帆船でしたが、造船国ニッポンへの階段をのぼるための大切な第一歩でありました。
現在、ヘダ号の模型は、プチャーチンの愛用品などとともに造船郷土資料博物館に展示されています。
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| ◆造船郷土資料博物館 |
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昭和44年7月1日、ロシア軍艦ディアナ号の造船資料を中心に明治100年記念事業として日本政府・ロシア等の寄付によって、御浜岬に設立されました。館内にはロシア軍艦ディアナ号艦長プチャーチンの遺品や代船建造の記録が保存展示されています。
入館料 大人300円
小人100円
※休館日・・水曜日
電話0558-94-2384
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| ◆造船記念碑 |
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明治44年10月、戸田村では牛ヶ洞造船地跡に記念の木柱を建てましたが、これは仮りのものであり、大正12年3月10日、ヘダ号建造跡の南西隅の地に石碑を建て、洋式帆船発祥の地という歴史的事跡を後世に伝えました。
御浜の入口に位置する碑の文面にあるディアナ号を”知耶那(デヤナ)”、プチャーチンを”布口査珍(プチャーチン)”と表記した全漢文が歴史の重みと時の流れを如実に物語っています。 |
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| ◆宝泉寺露人の墓 |
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宝泉寺はプチャーチン提督の宿所となった寺。記録によれば安政元年11月7日から同2年3月22日までの滞在とあります。
露人の墓は、過去帳から、造船のため滞在していた一行のうち、水兵一名が病死したので墓地に埋葬されたものとわかります。また宝泉寺は境内の”しだれ桜”も有名。見事な枝ぶりと美しさで、春の風物詩のひとつに数えられています。
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| ◆大行寺(日露交渉跡地) |
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代船建造のため当地に滞在していたプチャーチンのもとへ幕府は勘定奉行・川路聖謨を出向かせています。先に締結した和親条約改訂のためでした。川路は、大行寺を応接所に当て改訂交渉を行いました。
その後、大行寺は2度の大火で類焼、当時の記録は現存していません。
現在の建物は旧水野領の名主、斉藤本家を移築したもので宝泉寺本堂につぐ村内最古の建造物と推定されます。 |
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